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ふんたーに花束を

  • 2015/01/20 16:57
  • Category: 日記
モンハンの世界に「ふんたー」や「ゆうた」という蔑称が使われて久しいが、私はこれらの別称を聞くたびに『アルジャーノンに花束を』の主人公「チャーリイ」を想起する
今回はそれをテーマにブログを書くが、まずは、「ふんたー」や「ゆうた」の説明、そして『アルジャーノンに花束を』の説明を軽くしておきたいと思う


「ふんたー」や「ゆうた」というのは、先述した通り、モンハンにおける蔑称である
「ふんたー」はMHtri、「ゆうた」というのはMH4から使われるようになったが、彼らの特筆べき特徴は、行動や言動が小学生レベルで幼稚という点である
彼らは、他の通常なプレイヤー(何をもって通常なプレイヤーとするかは相対的であるが)にとって、非常に迷惑な存在でもあり、また、嘲笑して楽しむ対象でもある


『アルジャーノンに花束を』は、「ダニエル・キイス」の小説である
以下、その簡単な内容の説明である

主人公「チャーリイ」は知恵遅れの障害者であった
ある日、科学の力によって賢くなったネズミ「アルジャーノン」と簡単な迷路の競争をする
しかし、「チャーリイ」は「アルジャーノン」に負けてしまう
そして彼は「アルジャーノン」に施されたものと同じ手術を受け、IQ68からIQ185へと発達する
しかし、IQ68の時には分からなかったこと、例えば、同僚の友達からいじめられていたこと、親が自分を見捨てたこと、など知りたくなかったことまで知ってしまう
そして、「アルジャーノン」は異変を起こし、「チャーリイ」は手術に大きな問題があったことを発見する

今はこの『アルジャーノンに花束を』の内容について詳しく書く暇はないが、興味があったら是非読んでみたもらいたい一冊である


この一見全く別物に見える両者を、私はなぜ結びつけて考えるのかというと、それは「ふんたー(以下、ゆうたという意味も含蓄する)」と手術を受ける前の「チャーリイ」を見る世間の視線は全く同じものであるということに起因する
もちろん、「ふんたー」は「チャーリイ」と違って脳障害者ではないし、「ふんたー」と呼ばれているゆえんが自己の努力の怠慢であるならば、それについて世間から批判されることは免れないことなのである
しかし、先に「世間の批判」と言ったが、果たしてそれは全て"誠実な"世間の批判なのであろうか

ここで、分かりやすくするために「ふんたー」の一例をあげてみよう
モンハンで他の人とプレイする時に、討伐対象となるモンスターに全く効き目のない属性の武器を担いでいる人が一人いたとする
その場合、この人は「ふんたー」であるというのは大方の意見が一致するところだと思う
他の人は、「その属性はこいつに効き目がないから別の武器に変えてくれ」というような要望を持ち、時にはそれを言葉として発するだろう
しかし、その「ふんたー」が言うことを聞かなかったり、「他の武器を持っていない」と弁明しても、他の人からの「他の武器くらい作っておけよ」という糾弾を免れることはできず、結局、適切な武器に変えなければ「ふんたー」としてのレッテルは貼られてしまう

こうして、「ふんたー」は批判されるのであるが、この「批判」というのは誠実な批判ではない場合が多い
大概は、「憂さ晴らしに」とか「面白いから」という理由であり、「本当に正しくなってもらいたい」という批判は滅多にない
少なくとも、「更に正しくなって自分よりも優れた存在になってもらいたい」などと思う人は皆無である
仮に、上記の「ふんたー」が「チャーリイ」のような手術を受け、知識も技術も他の人よりも向上したとしたら、彼らは喜ぶだろうか
そして、今まで「ふんたー」だった人に、「その武器よりもこの武器の方が攻撃力的な理論値は高いから変えてくれ」という要望を出された時、彼らは相対的に見て自分が「ふんたー」であることを自覚するだろうか
当然、しないだろう。それどころか、今まで「ふんたー」と見下していた人が自分以上になったことなど、決して認めないだろう
「チャーリイ」の場合も然りであった
「チャーリイ」は手術を受ける前は、他の人に嘲笑われる対象としてある意味人気であったが、手術を受け、賢くなったあとは、他の人は全く寄り付かなくなった
今まで自分よりも下だと思っていた人間が急に成長したので、自分がみじめに思えてしまうのが嫌だったのである


今回の更新はおそらく私的な感情が入りすぎてしまっている部分が多いと思う
しかし、私に言わせれば「改善を求めるという目的が根底にない批判」は野蛮な暴力に等しいとまで考えている
確かに、「その状況を体験しなければなんとでも言える」と言われればそれまでである
だけど本当に「ふんたー」に対して意味もなく批判することが正しいのだろうか?
自分の憂さ晴らしに「ふんたー」という絶対悪を作りあげているだけではないのだろうか?
それとも、このように考えるのは些か真面目すぎるのだろうか?



常識をもつ人ならだれでも、目の混乱には二とおりあり、そして二つの原因から生じることを思い出すであろう。すなわち、明るいところから暗いところへ入ったために生じるか、または暗いところから明るいところへ入ったために生じるかである。
これは心の目についても身体の目についてとまったく同じく、真である。そして、このことを覚えている人ならば、洞察力の混乱し弱まっている人を見たときに、そうむやみに笑えないだろう。彼は、その人が魂のより明るい世界から暗い世界に入り、それで暗さに慣れていないゆえに見えないのか、あるいは暗闇から白日のもとへもどったので、あまりの明るさのために目がくらんでいるのか、どちらであるかをはじめに問うであろう。
そして、彼は一方を健康や境遇において幸せであるとし、他をあわれむだろう。あるいは、もし彼が闇から光のもとへ来た魂を笑うような心の持ち主であれば、この場合を笑う方が、上方の明るいところから穴ぐらの闇へもどって来た人を迎えて笑う場合に比べればまだしも理由があるだろう。
――プラトン『国家』より
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